サンサンコーナー
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格差について
昔は・・・昔といっても私の幼い頃まであった話ですが、田畑や山林を多数有する金持ち・金満家のことを【高持ち】と言っていました。人々は皆米の収穫の為に働き、山へ芝刈りに行き、雑木を燃料として使い、大きい木は建築材料として使っていたので、現在より相当価値が高かったと思われます。
しかし今は時代も変化し、米作りをする人が少なくなるにつれて、田畑の価値はどんどん下がり、洋材を輸入した方が安上がりの為、国内の材木の消費も下落していき、当時の高持ちは勢いを無くしてしまったのです。高持ち資産の質が変化してきているのです。
私は人の教育の差が、将来に向けて大きく影響を及ぼしていくと思います。その人の一生のうちに家を繫栄させるか没落させるか、資産を運用してその差を拡大させるかは人の能力が関わってくるからです。優秀な人間が何代も続くとその家はどんどん繫栄していきます。そして益々優秀な人が教育によって作られていくのです。富は富を生み、その富の余力は教育や社交などの分野に広がり、更に差が拡がっていくのです。
私は今ユダヤの歴史を研究しているのですが、ユダヤ教というのは実に不思議な宗教です。ユダヤ教徒が一番大切にしている神の教えを、子孫に代々教育していくことが習慣化しているように思われます。宗教以外の世俗のことについても深く考えるということを教育されているからか、アインシュタインを筆頭にスターバックスやグーグル、フェイスブックの創業者など優秀な人を多数輩出しています。世界最大の金融家系として知られるロスチャイルド家も元々はユダヤ系の小さな商人でしたが、家訓を決め、守り、兄弟同士の情報を共有したことにより、巨万の富を築いたのです。富の形成と教育は固く結びついているということを本能的に知っていたのではないでしょうか。
資本主義、民主主義国家においても平等というのは非常に難しいです。何が平等なのか?例えば、努力した人と努力しない人の収入が同じことが平等なのか?差をつけることが平等なのか?これを判断するのはとても難しいことです。社会主義・共産主義の観点からいうと資本を投資し、利益を得ることは【搾取】になるそうです。では努力した人としない人とで差が生まれない社会を作るとどうでしょう?大体活気のない社会になります。
何故なら努力してもしなくても一緒なら、怠惰な動物である人間は、楽な方に流れてしまい、誰も努力をしない社会になるからです。人よりも少しでも良い生活がしたいという意欲があればこそ、向上心にも火が付くのです。やってもやらなくても同じという不等な平等があったとしたら、誰が一生懸命仕事や努力をするでしょう?
とはいえ、日本の点数主義のような教育、良い点を取って良い大学へ行き、良い会社に入るのが良しとする教育はどうなのでしょう?60歳代で定年し、その後は何もすることがない人生は寂しくないのでしょうか?
年金をもらって食べていければいいという人生はそれでいいのでしょうか?
人生百年時代をどう生きるか、どう楽しむかは自分の哲学、考え方次第だと思えれば、定年後からが楽しくなるかもしれません。そうすると5歳は若返るのではないでしょうか。
世界的にみても群を抜いている【少子高齢化】の日本。それをマイナスに捉えず、世界の規範となれたなら、日本人社会も捨てたものじゃないかもしれません。
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)